内山 節 ライブラリ

『私と森との三十五年』

私がはじめて群馬県の上野村に滞在したのは、一九七〇年代に入ってまだ間がない頃だった。投宿した鉱泉宿の前には神流(かんな)川が流れていて、一日中水音が響いていた。

宿の前でヤマメやイワナを釣ることができた。大神楽沢と湯の沢という二本の沢が、
宿を挟むように山から流れ落ちてきていて、その大神楽沢の出口付近には、一本の丸太橋がかかっていた。橋を渡ると山道がつづく。道の周囲の森は神社林ともいえるし、集落の人たちの共有林ともいえる。当時は植えたばかりのヒノキが両側にみえていた。

そこを過ぎると道は天然林のなかに入っていく。コナラやケヤキの多い林で、といってもそれほどの大木もなかったことをみると、マキを伐り出してきたのだろう。

十分ほど歩くとちょっとした山頂に出る。そこにこの集落の神様である虎(とら)王(おお)様が祀られていて、ほこらの両脇に大きなヒノキが三本あった。樹齢二○○年を超えた天然ヒノキだと いう。上野村は多少の天然ヒノキのある村だから、それらが天然のものだとしても不思議ではない。

以前はもう五、六本あったのだと村人に教えてもらった。昭和三十年代の前半に集落に電灯線を引くとき、村人の負担を軽くするために何本が伐った。集落水道を敷設するときに も伐った。集落の大きな収入になった。 

「あの神社の木は、みんなのために必要になったとき伐る木だ」というような話を、私は村人から何度か聞いた。総有林的性格をもっていたのだろう。そのヒノキもあと三本になっていたから、村人は山の麓に新しいヒノキを植えたのである。二百年後の集落を支える木として。実際村人たちは、そのヒノキの植林地をみながら誇らしげにしていた。子孫のために総有の森を残したのである。いつか子孫たちが役立てるときがくるだろう。そんな話を聞きながら、私は山村の暮らしとは何かを、少しずつ理解していったように思う。

いまでも虎王神社の社の横には、三本の天然ヒノキが立っている。といってもこのヒノキが集落のために利用されることは、もうないかもしれない。かつて集落の人たちが自力で おこなってきた「社会資本」整備は、いまでは役場の仕事になった。集落の人々も減ってきている。自分たちで何かをしようにも、できなくなっているのである。

神社の下の天然林の木は年々太くなってきている。その下のヒノキの植林地は、苗木は大きくなったものの道路の改修工事で、大半が消えてしまった。いまではコンクリートの絶 壁になっていて、昔の山道も絶壁を上っていくコンクリートの怖いような階段に変わった。

私がこの連載を開始した一九八〇年代前半には、村人はまだ林業に望みをもっていた。木材価格の低迷がつづき、林業で生計をたてるのはむずかしくなっていたけれど、当時はま だ村人の会話のなかに林業に関わる話がよく出ていた。「あの場所はジイさんが植えた」とか、「立派な森になった」とか。「木材価格が安い」と嘆きながらも、森の成長とともに 我々は暮らしているという雰囲気が村にはあった。

しかしいまでは、そんな話もほとんど聞こえてこない。自分たちを包む景色、人によっては茸の出る場所、狩猟の場所。そんな感じで人々は森をみている。木材という価値を生みだす場所という意識は、すっかり消えてしまったかのようだ。技術は失われても学びなおすことができる。資金がなくても、自分の手で少しずつ木を植えることはできる。しかし失った意欲を再度つくりだすことは、かなりむずかしいだろう。日本の林業は、意欲が失われたという意味で危機を迎えている。

村が存続できるかどうかもわからない状況で、林業に意欲をもてといわれても無理なのである。百年後も、二百年後も村はつづいているという確信があるからこそ、村人は未来の ために木を育ててきた。村がいつまでもつかわからないのに、どうして百年、二百年後のために働くことができようか。

上野村にはたくさんの山があるけれど、代表的な山に諏訪山、三笠山、天丸山、笠丸山、天狗岩といった山がある。天狗岩は昔天狗が住んでいたという伝承をもつ山、天丸山は雨 乞いをする山である。おそらく、それらはすべて山岳信仰の山だったのではないかと思う。山頂には祠や石仏があったりする。そのほかにも稜線を通る昔の山道を歩いていくと、ところどころに石仏がある。とすると上野村は、山岳信仰としての山々に包まれた村だということになる。

それはあり得る話で、上野村は奥秩父連峰の懐のなかの村だといってもよい。その奥秩父のなかにある三峰神社は、以前は修験道の霊場だった。いうまでもなく修験道は山の宗教、 山岳信仰の宗教である。いまは三峰神社だけがポツンとあるが、修験道の修業はひたすら山を歩くことを基礎にしている。三峰神社から西に峰沿いに歩いていけば、奥多摩の雲取山に 至る。北の方に歩くと国師岳、甲武士岳といった山々が連なる。この辺り一帯が修験道の霊場であり、霊山だったのである。上野村もこの山々に抱かれた村である。

村に暮らす滝上兵士郎さんの家では、祖先は山伏だったと伝えられているのだという。山伏は修験道の行者である。彼の家の近くに中正寺という天台宗の寺があって、平安時代から続く寺である。その天台宗は、平安時代から修験道と強く結びついた。全くの推測であるが、元々はこの寺の辺りに 修験道のお堂があったのではなかろうか。このお堂とともに 活動していた山伏の一人が、滝上さんの先祖であった。山伏はそのほとんどが優(う)婆(ば)塞(そく)で、つまり得度した僧侶ではなく、修業を重ねて行者となった「俗人」であった。修験道の開祖と仰がれる役行者(えんのぎょうじゃ)自身が優婆塞である。そして多くの行者たちは、普段は村の百姓として暮らし、頼まれると雨乞いをしたり、病気を治したりした。滝上さんの先祖も、そんな暮らしをしながら、ときに山に入り、修業をしていたのであろう。この行者たちのお堂が、後に修験道とかかわりの深い天台密教系の寺になり、得度した僧侶が常在するようになった。そういう歴史ではないかと私は推測している。

明治政府が修験道廃止令を出したのは明治五年のことだった。当時の民衆のなかに根づいていた自然信仰、山岳信仰をつぶし、国家神道によって日本の精神世界を統一するための 政策であった。自然の神やそれが姿を変えて現れたと考えられていた諸仏に代わって、国家神道系の神を祀ることが強制され、修験道系のお堂や社の多くは、国家神道系の神社に変わっていった。

廃止令が出されて百三十年余りしかたっていないというのに、修験道的な自然信仰の世界は、すっかりわからないものになってしまった。残っているのは山神、水神といった部分 だけで、それも自然の神の体系のなかの山神や水神ではなく、森や水の守り神として孤立した存在になっている。

森と人間の歴史には、時代を超えて受け継がれてきたものと、断絶したものとが重なりあっているのではないかと私は思っている。「日本人の自然観・森林観」とか、「伝統的な森林利用」という言葉を用いることが可能なほどには一貫していない。ところが私たちは、しばしばそのことを忘れる。

それは一面ではやむをえないことで、人間たちの時間意識と森の時間が違いすぎるのである。だから人間たちは、自分たちの実存的な時間感覚にもとづいて、昔からとか伝統的と いう言葉を使う。ところが森の長大な時間世界からみれば、それは昔からでも、伝統的でもなかったりする。

たとえば上野村は、かつて群馬県でも有数の炭の出荷量の多い村であった。一九五〇年代までの景色を覚えている村人は、山のあちこちから煙がたち上っていたという。だから私 たちは、炭焼きを伝統的な森林利用のひとつとして語る。

ところが上野村で炭焼きが盛んになったのは明治以降のことなのである。工業用木炭や民生用木炭の需要の高まりが上野村の木炭生産を促した。大正時代から一九五〇年代半ばまでが生産量が多かったようだが、それは森の時間からみれば、ほんの一時のことであった。もちろん太古の昔から人々は炭を焼いていたであろうが、それは職業としての炭焼きではなく、村の生活のなかで使う炭である。昔からわずかには炭を焼いてきた、というレベルである。

ほとんどの地域がそんなものだろう。とするとこれらの地域では、炭焼きは伝統的な森林利用とはいいがたい。にもかかわらずそれが伝統的なものと感じられるのは、人工林型の 木材生産林の形成が、森林利用の主流形態になった時代に生きている私たちからは、それが伝統的なもののように感じられるということであろう。現在の時代を生きている人間の時間感覚からは、そう感じられるということである。

たとえばこんなこともある。以前から幕末期は各地にハゲ山がひろがっていたことは知られていた。実際江戸時代には、水源の森林維持が議論されているし、安藤広重の中山道周辺の山の描き方をみても、いかにも木のない山が多い。その広重の絵には柴を運ぶ人の姿がしばしば描かれている。マキの生産だけではなく、農業用柴の需要の多かったこともハゲ山を拡大させた原因であった。

この事実から、私たちは江戸末期には各地にハゲ山があり、明治以降森として修復されてきた、と考えるようになった。私自身も最近までそのことを疑わなかった。

しかし、といま私は思っている。それは野原をハゲ山としてとらえる現代人の発想かもしれない、と。

今日の私たちは、森のない山を荒廃した森ととらえる習慣をもっている。それは、特に戦後に、木を植えることを絶対善としてとらえる精神の習慣を、私たちがもったからであろう。だが昔の農山村の暮らしでは、森だけでなく草原もまた必要だった。そこは採草地であり、その草は牛馬の餌や肥料として用いられた。さらに草原は多くの山菜を生みだす場所でもある。私も上野村では家のすぐ横でヤマウドやワラビなどが採れるようにしている。夕方家に戻るついでにちょっと採って食卓に上げる暮らしは、村ではかなり便利なものである。ワラビのために遠くまで行くのは不便なのである。

とすると集落近くの山は草原の方が有利だったのではないだろうか。以前に長野県のある村で、私は夕方農家の人が家から出てきて草を刈り、畜舎の牛に餌をあげる光景をみてい たことがあったけれど、手伝ってみると青草はかなり重い。毎日のことなのだから、草刈り場が遠かったら大変である。

おそらく江戸末期には、意図的につくった草原と、マキや芝刈りの結果拡大しすぎた草原との両方があったのではないだろうか。ところが山に木を植えることを絶対善のようにと らえてしまった私たちは、この草原をハゲ山として認識し、負の遺産としてのみ考察してしまった。

今日を生きる私たちの時間感覚のなかでは、そう感じられたのである。だがその視点だけで正しかったのか。

伝統的な森林利用というなら、それは、山からマキや山菜や茸を採り、ときに猟もしながら人々は暮らしてきた、とか、その森から流れ出る川を利用して人々は暮らしたとか、山は信仰の対象でもあり、集落近くの草原もまた重要であったというような、簡単な規定しかできないのではなかったか。そして、そのどの割合が多かったのかは地域によって違う。

都市に近いところでは、古代から都市にマキを売るという行為がおこなわれ、マキの生産量も多かったことだろう。しかし都市から遠い村では、自分たちの生活用のマキがあれば 十分だったはずだ。東北の村のなかには、江戸時代から山菜や茸の採取が一定の収入をもたらしていた場所もある。採るのはゼンマイとマイタケで、それらは乾燥させると保存がきき、遠くに運ぶのも容易だった。

牛馬の多い地域では草が大量に必要になるし、水田では柴が重要だった。そんなふうに「伝統的な森林利用」は地域によってその体系が異なっていたであろうし、同じ村であっても時代とともに変化していたはずである。人工林型の林業も同様で、江戸時代からおこなわれてきた地域では、それも伝統的な森林利用のひとつと言ってもよいが、戦後になってはじめて木を植えたような地域では、伝統的なものとはいえないだろう。ところが人間の時間感覚からは、それもまた「昔から」の森林利用のようにみえるのである。

私が上野村で暮らすようになって、三十五年ほどがたっている。はじめは林業がこの村の伝統的な森林利用のかたちだと思っていた。ところが村人によく聞いてみると、植栽する ようになったのは戦後のことで、ただし明治から栗の伐採はおこなわれていた。山で造材し、線路の枕木として出荷するようになったのである。江戸時代にも、江戸で大火があったときなどは、無理して出材したこともあるらしい。

明治になって産業としての炭焼きがはじまり、それは一九六〇年前に終わった。その頃終わったものに焼畑農業もあった。耕地の少ない上野村では、おそらく焼畑はかなり昔から おこなわれていたことだろう。明治の中期以降は、狩猟によって毛皮をとることも大きな収入源になっている。日露戦争、日中戦争などがはじまると、軍服の衿などにつける小動物の毛皮に大きな需要が発生したのである。上野村は水田はないから柴はそれほど重要ではなく、マキを出荷するようになったのも森林軌道ができて輸送できるようになってからのことだった。馬の数は多く、草原は大事だった。

このような変遷をとおして、上野村の伝統的な森林利用は 推移してきたのである。すなわち、歴史をみるかぎり、伝統的な森林利用とは、固定化された利用形態があったかのようにとらえるものではなく、時代に対応しながら森を利用する生活をしてきたことのなかに求められるものではないか、という気がしてくる。変わらないのは森を利用した生活や労働の方にあるのであって、その形態ではない。

もうひとつ変わらなかったのは、自然に対する畏敬の念であり、信仰であろう。だがそれは、いまでも残っているとはいえ、明治以降崩されつづけた。そして今日では、村人はあまり森を利用しなくなった。その意味で伝統的な森と人との関係が崩れ、その森と人との関係を仲介する役割を果たしてきた「集落」も、維持が大変な時代を迎えている。

今日の問題は、このような視点に立つなら、林業の危機ではなく、伝統的な森林利用の危機なのである。なぜなら、林業もまた、ひとつの時代のなかでの伝統的な森林利用のかたちだからである。林業が衰退しても、それに代わる新しい人と森の関係が生まれてくるのならそれでもよい。歴史をみてみれば、そういうことはしばしば起こっていた。形態は変わっても、人が森を利用するかたちが維持されていればそれでよい。ところが今日の現実は、林業の衰退とともに、人が森から離れたことにある。それを私は、伝統的な人と森との関係の危機だと思うのである。 

こんな気持ちをいだきながら、私は二〇〇八年を迎える。まずは村の維持だ。村が維持されれば、村人は必ず森との関係をつくりなおすと信じながら。

(哲学者)

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※本記事は、「山林」(大日本山林会 発行)にて連載中のコラム「山里紀行」より
 山里紀行連載200回記念『私と森との三十五年』より引用しています。
(2008年1月発行号掲載)
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プロフィール

内山 節 (うちやま たかし)哲学者

森づくりフォーラム代表理事
1970年代から東京と群馬県上野村の二重生活を続けながら、在野で、存在論、労働論、自然哲学、時間論において独自の思想を展開する。2016年3月まで立教大学21世紀社会デザイン研究科教授。著書に『新・幸福論 近現代の次に来るもの』『森にかよう道』『「里」という思想』『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』『戦争という仕事』『文明の災禍』ほか。2015年冬に『内山節著作集』全15巻が刊行されている。

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