内山 節 ライブラリ

『幸せという問い』

 

 経済発展は人間たちを幸せにするのかという問いは、いまでは全国のさまざまなところで発せられているように思う。都市でも、農山村でも、実に多くの人たちがこの問いを自らに投げかけている。

 もちろん絶対的貧困は人間たちを苦しめる。だから貧困なき社会の創造は私達の課題でもある。だが経済的豊かさの増大が人間に幸せをもたらすわけではない、ということもまた明らかになってきた。

 かつてはこういう問いが発せられたとき、私達は思想としてのその答えを見つけようとしたものだった。それが戦後の日本の「知の作法」だった。面白いのは、今日ではこの「知の作法」にしたがわない人々が数多く生まれていることだ。彼らは思想的に追求する前に行動に移す。幸せに生きられる場所を探して、ある人は農山漁村にいき、またある人はソーシャル・ビジネスを起こし、人によってはシェアハウスに住むなどしながら幸せな自分たちの場所をつくろうとしている。もちろん彼らとて、幸せの意味をつかみとれる思想を探しているのだけれど、思想がつくれたら行動するのではなく、行動しながら思想をもみつけようとしているのである。

 だから農山漁村に移住した人たちでも、暮らしぶりはさまざまである。徹底的に自給自足度を上げることにこだわる人たちもいるし、インターネットなどを利用して村で起業をめざす人たちもいる。農林業のなかに幸せな自然と人間の関係をつくりだそうとする人もいれば、土着的な地域文化のなかに幸せな人間の居場所をみいだしていく人もいる。

 こうして、さまざまな自発的な行動が全国に広がる時代が生まれた。まるで思想が行動をつくるのではなく、行動が思想をつくるのだとでもいうような、あるいは人間の存在のあり方が思想創造の基盤などだというような動きが、とりわけ若い人たちを中心にして広がっている。それが今日のひとつの時代状況でもある。

 このような変化が生まれてきた背景には、課題がどのような社会システムをつくるのかから、どのような生き方をするのか、どのように生きたら幸せを手に入れることができるのかに変わってきたことがあるのだろう。私の若い頃は、社会変革とは社会システムの変更のことだった。たとえばそれは、資本主義から社会主義へというようなものである。だからまずは社会主義思想を学ぼうとしたりした。

 ところが幸せに生きるというようなことが、あるいは自分はどう生きたらよいのかというような課題になってくると、この問いは永遠の問いになってくる。本を読んだらわかるというようなものではない。もちろん本を読めば参考になる事例などは出てくるだろうが、それはあくまで参考事例であって、幸せな生き方は自分でつくりだしていくしかないのである。ゆえにまずは行動が必要になる。

 といってもこの「行動者」たちには共通の思想があることも確かだ。それは幸せな生き方をつくりだすためには、それを可能にする場所が必要だということである。自分だけで行動していても幸せになれない。なぜなら幸せとは自然や人々、文化などとの関係のなかでつくられるものであり、「我一人」ではけっして創造できないものだからである。自然と人間の関係のなかに幸せを感じる時間があったり、家族や友人との関係のなかに、仕事との関係のなかに幸せが生まれるように、である。とすると関係を生み出す場所が必要だということになる。

 だから今日では、そのような場所を求め、あるいはその場所をつくりだそうとして、農山漁村に移住したり、自分たちの生きる場所をつくっていこうとするソーシャル・ビジネス的起業をおこなう人たちが増え続けているのだろう。

 年が明けてからも、私はずいぶん多くの地域を訪れた。それはときに農山村だったり、都市だったりする。そして行くたびに、幸せに生きられる自分たちの世界をつくりだそうとして、いまの市場経済を冷ややかにみながら行動する人たちに出会った。この動きのなかでは、都市と農山村という境界はなくなっているかのようだ。なぜなら場所の性格は違っても、人々は同じものを追い求めていたからである。

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写真:石井 春花(森づくりフォーラム)
※本記事は、「山林」(大日本山林会 発行)にて連載中のコラム
 「山里紀行」より第286回『幸せという問い』より引用しています。
(2015年3月発行号掲載)
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