内山 節 ライブラリ

『共同体』

今年は山にエサが少ないのかもしれない。
六月中旬のある日、畑をみにいくと、ジャガイモ畑がイノシシに食い荒らされていた。

イノシシの畑荒らしは、この四、五年は毎年のことになっているから、
私の畑には防御用のネットが張ってある。その下に溝を掘って潜り込んだ跡があった。
私の予想では、たとえネットが張ってあっても、七月下旬になったら用心したほうがいい、というものであった。
その頃には、ジャガイモがおいしくなっている。
動物は作物がおいしくなった時期をねらうものである。

それが、今年は一月以上早く出没しはじめた。
まだ十分においしくなっていない。とすると山が不作なのかもしれない。
こうして私もまた、出来上がっていないジャガイモを早々掘らなければならなくなった。

もちろん動物による畑の被害は、村では私だけに限ったことではないから、
村人は顔を合わせれば動物たちの動向を話題にしている。
どこの家の畑がイノシシに荒らされた。あそこの家ではシカにやられた。
あの集落はサルに参っている…。他の山村も同じであろうが、事態はかなり深刻である。

それなのに、防御策は講じても、動物を退治しようという声は聞かれない。
村人は畑を荒らしにくる動物を追い払いたくても、追いつめたくはないのである。

もちろん冬の猟期の間は、ずいぶん多くのイノシシが撃たれた。
私の畑を去年荒らしたイノシシも、ずいぶん狙われた。
多分、今年荒らしているのも同じイノシシなのだけれど、
それは100kgもある大きな奴で、ついに猟期を逃げ切った。
人家の近くにいる動物は、人間や犬の習性を知りつくしているとかで、
村のベテランも仕留めることができなかった。

そうして猟期が終わると、たとえ畑が荒らされても、村人は、
まるでそれが礼儀だとでもいうように、イノシシを追い払おうとはしないのである。
これだけ被害がでているのだから、害獣駆除の申請を出せば、
おそらくすぐに認められるであろう。しかし、そこまで追いつめたくはない。
困ったと言いながら、野放しである。

それは、気持ちのどこかで、動物たちも自分たちの暮らす共同体の一員である
ことを認めているからではないかと思う。
いわばイノシシも、この共同体でともに暮らす、少々困った仲間なのである。
だから村八分くらいの対策は講じても、その生存を徹底的に否定する気にはなれない。

共同体は単なる制度ではなく、自分たちが暮らす共有された空間である。
それは人間が暮らす里であるとともに、森や川、そして動物たちの里でもある。
だから共同体をうまく治めることのなかには、人間社会を上手に治めるだけでなく、
自然と人間との関係の治め方も含まれていて、そこに村の共同体の世界が展開する。

共同体の精神は、決して、人間社会の論理だけではつくられていない。
そして、このことを、過去の共同体論は忘れていたのではないかと思う。
それは、かつての共同体論の基本的な理論が、やはりヨーロッパの社会科学の
共同体分析に依存されていたからであろう。
その結果、人間中心主義的な共同体分析の方法をとおしてしか、
日本の共同体もとらえることができなかった。

少し前まで、戦後の日本の共同体論の教科書的役をはたしていたのは、
大塚久雄の『共同体の基礎理論』であった。
この本の中でとらえられていた共同体とは、土地に縛られていた人々が、
封建的な因習に支配されながら暮らす農村社会のことであった。
ここから共同体の解体をとおして村の民主化・近代化をすすめることが、
歴史発展の不可欠の課題として主張された。

1970年代に入ると、農業経済学者の守田志郎が、この説の対決するようになる。
守田は、農村における共同体の否定できない役割を考案していた。
そこから、人間社会としての共同体の循環と、自然の循環との間にある相互的な関係が
提起されるようになった。
それでもなお、守田志郎にあっても、自然の世界は共同体の外にあったような気がする。
共同体はやはり人間の暮らす里であった。

ところが長年村に暮らしていると、村人たちの共同体の精神のなかには、
自然の世界が含まれているように思えてくる。
村の入口に置かれた道祖神が、集落の入口にではなく、自然の世界を含む村の入り口に
置かれているように、村人は、村や集落という言葉にも、当然のように自然の世界を
ふくめている。

だから村人は、畑を荒らすイノシシに対しても、複雑なまなざしを向けるのである。
追いつめすぎてはいけない。彼らもまた共同体のなかで、ともに生きているのだから。

日本の共同体の精神は、自然のなかで暮らす人間の精神でもある。

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写真:宮田 森平
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※本記事は、「山林」(大日本山林会 発行)にて連載中のコラム
 「山里紀行」より第112回『共同体』より引用しています。
(2000年8月発行号掲載)
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